残響(今日のおかず「Merry Christmas Mr. Lawrence/坂本龍一」)

残響

 

命の価値は一つも無くて

魂の意義は慰めで

死ぬために生まれてきた僕ら

何をやったって「何になんだ?」って

ぬぐえない空虚感の中で、もがいてはうめき続け

声は枯れて、希望は腐って

僕の心も、虚構だろうけど

まだ痛む

いつか信じたあの希望も、今はくすんだまま

あの時芽吹いた熱など冷えて

残せる物など塵程も無いけど

叫びは、遠く空を駆けて

運命を揺らす蝶のように

僕が残した振動の粒よ、何かに届いて遠く離れ

零に戻る時を拒んで

もがいて、呻いて、揺らして、残ってくれ

零に戻る瞬間に、誰も気づけないけれど

ただ、ここで歌ったこと

ただ、ここに残ったこと

ただ、ここで生きたこと

 

 

今作っている新曲の歌詞です。マイナーチェンジするかもだけど、とりあえず。

 

バンドやってて、楽しいことが一つも無いわけじゃないけど、辛いことのほうがずっと多かったですし、これからもそうだと思います。ただそれは最初からわかっていたことで、だからどうだという話ではありません。別に楽しいからやっているわけではないし、それが目的でもないので、それらは二の次なわけです。もちろん楽しいにこしたことはないですが。

「人を楽しませるためには自分がまず楽しむ」という言葉がありますけど、それを自分に当てはめると、自分自身を否定されているかのように感じて辛くなります。ただ、音楽はエンターテイメントですが、楽しさだけを与えるものでもないと思います。映画だって演劇だって、喜劇ばかりではありません。楽しそうに悲劇を演じるピエロという存在はありますが、全てのエンターテイメントが人を直接笑わせるためのものではありません(最後の最後で希望を見せたり「共感によって自身の悲劇を自覚することで乗り越える」というような間接的、将来的に笑わせるための物は多く存在するし、ひたすら悲劇だけを追求する物も存在する)。

これは自分自身を正当化したいがための考察だと思いますが、人が求めているものは必ずしも楽しさだけではないと信じています(自己啓発本等を読むと頭が痛くなります)。実際自分がそうです。あたかも破滅願望を助長するかのような話ですが、本当に破滅するまでの勇気や才能は俺にはありませんし、殆どの人がそうでしょう。つまるところ防衛機制の働きによって起こる感情の一つなのだと思います(本当に破滅する人は人に背中を押されずとも環境が整えばそうします)。共感は癒しに繋がります。悲劇を好む人が居るというのはそういうことだと思います。笑うのにも楽しむのにも、それらを感じる事自体にも、ひとまずはエネルギーが必要なわけです。暗がりの中からいきなり照りつける太陽の下に行くと目が痛いわけです。糸のような光すら眩しいなら、しばらく暗がりの中で休んでいていいわけです。もちろん、治療には痛みが伴うという考えもあるでしょうけど、その痛み一つにも、耐えられる人、耐えられない人が居るわけです。

何にせよ悲劇は必要性があるから存在しているわけです。バックホーンもそう言ってます(笑)。悲しい時に笑えるような強さがある人なら良いでしょうけど、そういった強さが無い人には別の乗り越え方があります。いっそ乗り越えなくたっていいのかもしれません。それも一つの生き方だと思います。

 

メリークリスマス ミスターローレンス/坂本龍一

 

最後の観客の拍手まで含めての曲。

 

 

立山