自分の過ごしている毎日が何かの冗談なのではないかと、そう感じる瞬間がよくあります。
自分の意思と同じ動きをしている自分がそこに居て、周りには日常と呼ぶために必要なそれらしきものがいくつかあって……。自分が"これが自分だ"と確信して感じることの出来る演者はどこにも居ません。思考の中には、考えるべきこと、考えたくないこと、に加えて、自分ならこういったことを考えるだろうということと、普通だったらこの状況でこう考えるだろう、といったこと等が散らばっています。
さて、かといって別にそれが嫌だというわけではなく、むしろ自然なことのように感じもします。
どれだけの人が、自分のどこかを指して「これが私です」と言い切れるでしょうか。多かれ少なかれ、誰もがメタ的思考というか、らしさを演じてみたり、自分が自分に求める思考、行動をとったりするのではないでしょうか。なんとも表現しにくいですが。
ともかく、自分の"気づきに気づくこと"で、フワフワとした現実感のなさを感じたり、それこそ毎日を過ごしていることが出来の悪い冗談のように感じるのも自然なのではないかなと。止めろと言われてすぐに止められるようなものでもないし、ただ一つの問題に対して当たり前の答えがあるというだけ。自分の存在が作り物のようであることなんて、普通のことなんでしょう。
Glósóli/Sigur Ros
立山
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大ファン (日曜日, 15 6月 2014 23:28)
今夜も近くで聴けて嬉しかったでした♪ヽ(´▽`)/
二枚目のCDも心から楽しみにしています♪
一枚目は毎日聴いています
立山 (月曜日, 16 6月 2014 20:27)
>大ファンさん
ド直球なお名前ありがとうございます。お越しいただきありがとうございました!
2枚目もぜひぜひ、発売日よりご堪能ください。